お知らせ

令和5年03月29日

第2回『春の特別参拝と重要文化財 織田家 柳本陣屋御殿「文華殿」特別公開』開催のお知らせ

※行事は終了いたしました。
 このたび橿原神宮では、『春の特別参拝と重要文化財 織田家 柳本陣屋御殿「文華殿」特別公開』を開催いたします。
 御神前に近い内拝殿での特別参拝と共に、現在保存修理中の重要文化財 織田家 柳本陣屋御殿「文華殿」(旧織田屋形大書院〈おおじょいん〉及び玄関)を特別に御覧いただきます。

 今回の特別公開は、令和4年に引続き第2回目の開催。内拝殿での特別参拝の後、「文華殿」建物全体を持ち上げる大規模な「揚屋〈あげや〉工事」内部の貴重な様子を特別公開いたします。

 同時開催の宝物館での企画展では、大書院に掲げられていた欄間や、織田家にゆかりある掛け軸等を展示。文化的な側面から「文華殿」へ迫ります。

■重要文化財「文華殿」とは
 「文華殿」は、織田信長の弟、織田長益(有楽斎)の五男・尚長(ひさなが)を藩祖とする柳本(やなぎもと)藩の陣屋御殿のうち、大書院及び玄関が移築されたものです。
 陣屋御殿は文政13年(1830)に一度焼失し、現在の建物は天保15年(1844)に再建された時のものです。
 明治10年(1877)4月以降は、柳本小学校の校舎として使用されており、小学校校舎の改築計画に伴い撤去されることとなりましたが、昭和39年11月に橿原神宮へ奉納され復元保存が実現しました。その後、修復工事が竣工された昭和42年に重要文化財に指定されました。
 江戸城本丸御殿大広間と数多くの共通点が指摘されており、江戸城の大広間が失われた現在、それを偲ぶことができる唯一の建物となっています。

■期間
令和5年4月22日(土)・23日(日)、4月29日(土)~5月7日(日)

■初穂料
3,000円(高校生以下1,000円)

■受付時間 ※5/4更新
所要時間約80分/各回最大20名
※祭典及び行事等により、受付時間が異なる日程がありますのでご注意ください。

【4月】
・22日(土)  9時~15時
・23日(日)  9時~15時
・29日(祝・土)12時30分~15時
・30日(日)  9時~15時

【5月】
・1日(月)  11時~15時
・2日(火)  9時~15時
・3日(祝・水)11時~15時
・4日(祝・木)9時~15時
・5日(祝・金)11時~15時 →9時~15時へ変更
・6日(土)  9時~15時
・7日(日)  9時~15時


■行程
① 受付(外拝殿前)
当日、外拝殿前にて受付をいたします。

② 特別参拝(内拝殿)
祭典及び行事等により、参拝場所が変更となる場合がございます。

③ 文華殿見学
土曜日(4/22、4/29、5/6)は、神職の案内に加え、奈良県文化財保存事務所より保存修理内容についての御説明をいただける回がございます。

④ 宝物館見学・解散
ご案内は宝物館前までとなります。
チケットを提示のうえ、ご自由にご覧ください。

ご参加いただいた方には、橿原神宮ゆかりの〈カシの葉とドングリの刻印入り〉特製ブッククリップ(金・銀いずれか1個)「カフェ橿乃杜」1ドリンク無料チケットをお渡しいたします。 café 橿乃杜(外部サイト)

令和4年06月17日

重要文化財「文華殿」保存修理事業について

文華殿ぶんかでん」とは
 「文華殿」は、織田信長の弟、織田長益(有楽斎)の五男・尚長ひさながを藩祖とする柳本やなぎもと藩の陣屋じんや御殿のうち、大書院及び玄関が移築されたものです。

 陣屋御殿は文政13年(1830)に一度焼失し、現在の建物は天保15年(1844)に再建された時のものです。

 明治10年(1877)4月以降は、柳本小学校の校舎として使用されており、小学校校舎の改築計画に伴い撤去されることとなりましたが、昭和39年11月に橿原神宮へ奉納され復元保存が実現しました。
その後、修復工事が竣工された昭和42年に重要文化財に指定されました。
(指定名称:重要文化財旧織田屋形大書院・玄関)

〈小学校として利用されていた当時の文華殿〉
写真提供/天理市立柳本小学校

 

保存修理事業について
〈事業期間〉令和261日~令和8331
 この度、建物に屋根瓦のずれや破損、軒先の部材には雨漏りによる腐朽、床には礎石の不同沈下によるものとみられる不陸が生じるなど、保存に支障が出てきたことから、保存修理を奈良県に委託し、令和2年から6年間に及び工事が進められています。

 柳本藩の陣屋御殿である「文華殿」は、天保15年(1844)の建立より170年以上経ち、江戸時代の大名御殿がほとんど失われた今日、御殿で最も重要な部分である表向き御殿の遺構として、大変貴重なものと評価されています。
この貴重な文化財や境内の豊かなもりを後世まで受け継ぎ、御参拝いただく皆様が清々しい気持ちで安心・安全にお参りいただくため境内特別整備事業を執り進めております。
今後も各工程での記者発表や特別公開などを含め、重要文化財「文華殿」の新たな発見や保存修理の過程について情報発信をして参ります。

〈令和4年 特別公開時の様子〉

 

■これまでの取り組み

令和4年06月16日

「文華殿」見どころ

 柳本藩の陣屋御殿である橿原神宮「文華殿」は江戸時代の大名御殿がほとんど失われた今日、御殿で最も豪華な部分である表向御殿の遺構として、大変貴重なものと評価されています。
こちらでは「文華殿」の見どころを御紹介いたします。 ■玄関
 4つの部屋と入側(いりがわ)および式台を「玄関」と呼んでいます。千鳥破風の屋根が突出した部分を「車寄」、その低い床を「式台」と言います。車寄の妻飾りは意匠が優れており、軒下の虹梁(こうりょう)はケヤキの一木でできています。

〈玄関 正面〉画像提供/奈良県

〈虹梁〉

また、織田家は平姓を名乗っていることから、釘隠しは平家の紋である揚羽蝶があしらわれています。

〈揚羽蝶があしらわれた釘隠し〉

■瓦屋根
 瓦は約3万点。瓦の葺き方には、「本瓦葺」と「桟瓦葺」があり、旧織田屋形では玄関の車寄と大書院の千鳥破風のみが本瓦葺、他は桟瓦葺でした。

〈桟瓦葺〉

〈本瓦葺〉

 大書院は文政13年(1830)に焼失していますが、鬼瓦の側面に再建をはじめた天保7年より前の「天保三年」の刻銘があることから、建物の再建に先行して瓦が焼かれたことが分かります。

〈文華殿で一番大きな鬼瓦 「大書院大棟東鬼瓦」〉

■千鳥破風
 大書院の屋根の南面中央には、三角形の千鳥破風が飾られています。御殿の屋根に千鳥破風を飾る例は江戸城本丸大広間が知られています。千鳥破風の懸魚(げぎょ)は天保15年(1844・弘化元年)の再建時のもので、織田木瓜(おだもっこう)の家紋が彫刻されています。

〈大書院 千鳥破風〉

〈千鳥破風の懸魚(げぎょ)〉

 

■上段の間・中段の間
 大書院には、対面の為の主要部分が、上段・中段・下段の3室あり、それぞれ天井の意匠と床の高さを変えて、部屋の格を示しています。
 下段の間から鍵の手に更に二の間、三の間が続きます。このL字形の平面は、上段を主室として中段・下段を一系列とする対面の場と、下段を主室とし、二の間・三の間へとつづくもう一系列の対面の場が重なって成立したものです。これは規模は小さいながらも、江戸城と同じ様式となっています。

〈一番奥の上段の間からL字に部屋が続く様子〉画像提供/奈良県

 上段の間には書院造の構成要素である付書院・床・棚・帳台構えがあり、釘隠しは足利将軍家より拝領した桐の紋があしらわれています。

〈中段の間より見た上段の間〉画像提供/奈良県

〈桐の紋があしらわれた釘隠し〉

■欄間
上段・中段境には「桐に鳳凰」、中段・下段境には「雲に鳳凰」の欄間があります。いずれも丸彫りで彩色が施され、一部金泥も使われています。
 明治までは下段と二の間の間に「百鳥の欄間」があったと伝えられています。幕末の御殿に豪華な彩色欄間を制作した例は、加賀前田家の成巽閣(せいそんかく)、金谷御殿(かなやごてん)があります。

〈欄間 桐に鳳凰〉画像提供/奈良県

〈欄間 雲に鳳凰〉画像提供/奈良県

〈欄間 桐に鳳凰〉

令和4年06月16日

移築までの建物の沿革

――――――――――――――――――――――
「重要文化財 橿原神宮本殿・旧織田屋形修理工事報告書」
より抜粋、一部修正
昭和5310
【編集】奈良県教育委員会事務局 奈良県文化財保存事務所
【発行】奈良県教育委員会 
――――――――――――――――――――――

 本能寺の変で織田一門は多くの難に殉じ、明智光秀は秀吉に打たれ、秀吉の天下統一は完成したが、覇権は再び織田家には戻らなかった。織田家は次第に衰え、信孝は自刃し、信雄は僅に宇陀に五万石を保ったに過ぎない有様であった。

 信長の弟であり、柳本、芝村両藩の遠祖に当たる長益は、織田一門として同様な運命をたどった。当時長益は信州攻略に従っていたが、本能寺の変を聞いて尾張に逃れた。
その後、天正13年(1585)に秀吉に仕えたが、僅に摂津国味舌郷三千石を含むに過ぎなかった。しかし、長益は千利休に師事して茶道の奥義を極め有楽斎と号し、有楽流を創始して斯界の宗匠と仰がれ、秀吉の北野の茶会等には大いに活躍した。

 その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いおこるや、徳川家康方に味方して石田三成の将蒲生中守を討取った軍功により、大和国式上、山辺二郡の内で二万数千石、都合三万石を拝領して楊本郷もその所領となった。
かくして、長益(有楽斎)は三万石の大名となったが、大坂の天満屋敷(今の造幣局の場所に靴抜ぎ石あり)に住み、大和の領分を治めたが、元和元年(1615)8月12日、一万石を四男 長政ヘ、五男 尚長(ひさなが)へも一万石を分地し、残る一万石をもって京都建仁寺の正法院にこもり、もっぱら茶の湯にふけり、元和7年(1621)12月13日、73歳で死去した。

※「長政」については、同名の別人

 四男長政は芝村藩祖であり、五男尚長は柳本藩祖にあたり、楊本氏の館跡に元和二年(1616)現在の柳本小学校の地に陣屋を構えるに至ったものである。
かくて楊本領は中世の寺院領から大名領となり、小さいながらも城下町として整ってきた。

 しかし、文政13年(1830・天保元年)信陽の時代11月2日御殿が残らず焼失したが、天保7年(1836)から工事は、先ず勝手向建物より着手し、同9年(1838)正月頃から大書院の工事にかかり、八箇年の年月を費して天保15年(1844・弘化元年)3月すべての工事を終り、旧位置に再建旧観に復した。
この時の普請奉行は秋永七郎右衛門、岸上清馬等であった。鬼瓦には天保3年の箆書があって、予め鬼瓦が出来上がっていたとも考えられる。

〈旧織田屋形 平面図〉画像提供/奈良県

 現存する建物は、文政13年焼失後、天保15年3月に至って竣工した屋敷のうち、最も主要な部分が今日まで伝えられてきたものである。
明治廃藩置県後、屋敷内の他の建物は逐次撤去されたが、僅かに大書院及び玄関の主要な部分が残され、柳本村民に払下げられた。

明治10年4月柳本小学校が移転し、大書院及び玄関は校舎として使用されたが、その後昭和39年11月に橿原神宮に奉納された。


※「楊本(やなぎもと)」と「柳本(やなぎもと)」について
『柳本郷土史論』(昭和15年発行)には、現在の「柳」の字を使用されるようになったのが、江戸時代初期のことであると記述されています。その為、それ以前の時代の表現については、元々の地名である「楊本」の字を用い、記載を分けております。

令和4年05月24日

『春の特別参拝と重要文化財 織田家 柳本陣屋御殿「文華殿」特別公開』終了の御報告

 4月22日(金)から5月8日(日)までの17日間にわたって開催いたしました『春の特別参拝と重要文化財 織田家 柳本陣屋御殿「文華殿」特別公開』が終了いたしましたので、御報告申し上げます。

 今回、御崇敬の皆様と橿原神宮の御祭神との御神縁をより深めていただきたく、内拝殿での特別参拝を御案内申し上げると共に、令和2年から令和8年にかけて保存修理工事が行われている重要文化財「文華殿」の工事の裏側を御覧いただき、その建築的・文化的価値を皆様にお伝えいたしたく、特別公開を実施いたしました。

〈特別参拝にて御幣を供える参加者〉

内拝殿での特別参拝から、「文華殿」の保存修理の見学まで約1時間の行程においては、由緒などの説明と共に、神職と参加者の皆様とが直接語らう機会もあり、橿原神宮により一層親しみを持っていただけたのではないかと感じております。

〈特別参拝後の由緒説明〉

〈いよいよ、保存修理中の「文華殿」の中へ〉

〈曜日限定で行った奈良県文化財保存課様の説明〉

〈江戸城本丸大広間の屋根にも同じものが見られる千鳥破風(ちどりはふ)〉

〈下段の間にはかつて「百鳥の欄間」が存在したが、明治初期に海外に流出し、行方不明の状態〉

〈江戸後期作としては珍しい、彩色が施された丸彫りの欄間〉

 開催早々には大雨や、季節外れの寒さにも見舞われましたが、5月の大型連休には天気も回復。新緑の時期に相応しい気候の中、多くの皆様に御参加をいただきました。
 
 今後も令和8年の完成まで、保存修理の過程や特別公開の開催予定などについて、公式WEBサイト・SNSにて情報発信を行って参りますので、御注目をいただけますと幸いでございます。

LINEで送る