お知らせ

令和4年06月16日

移築までの建物の沿革

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「重要文化財 橿原神宮本殿・旧織田屋形修理工事報告書」
より抜粋、一部修正
昭和5310
【編集】奈良県教育委員会事務局 奈良県文化財保存事務所
【発行】奈良県教育委員会 
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 本能寺の変で織田一門は多くの難に殉じ、明智光秀は秀吉に打たれ、秀吉の天下統一は完成したが、覇権は再び織田家には戻らなかった。織田家は次第に衰え、信孝は自刃し、信雄は僅に宇陀に五万石を保ったに過ぎない有様であった。

 信長の弟であり、柳本、芝村両藩の遠祖に当たる長益は、織田一門として同様な運命をたどった。当時長益は信州攻略に従っていたが、本能寺の変を聞いて尾張に逃れた。
その後、天正13年(1585)に秀吉に仕えたが、僅に摂津国味舌郷三千石を含むに過ぎなかった。しかし、長益は千利休に師事して茶道の奥義を極め有楽斎と号し、有楽流を創始して斯界の宗匠と仰がれ、秀吉の北野の茶会等には大いに活躍した。

 その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いおこるや、徳川家康方に味方して石田三成の将蒲生中守を討取った軍功により、大和国式上、山辺二郡の内で二万数千石、都合三万石を拝領して楊本郷もその所領となった。
かくして、長益(有楽斎)は三万石の大名となったが、大坂の天満屋敷(今の造幣局の場所に靴抜ぎ石あり)に住み、大和の領分を治めたが、元和元年(1615)8月12日、一万石を四男 長政ヘ、五男 尚長(ひさなが)へも一万石を分地し、残る一万石をもって京都建仁寺の正法院にこもり、もっぱら茶の湯にふけり、元和7年(1621)12月13日、73歳で死去した。

※「長政」については、同名の別人

 四男長政は芝村藩祖であり、五男尚長は柳本藩祖にあたり、楊本氏の館跡に元和二年(1616)現在の柳本小学校の地に陣屋を構えるに至ったものである。
かくて楊本領は中世の寺院領から大名領となり、小さいながらも城下町として整ってきた。

 しかし、文政13年(1830・天保元年)信陽の時代11月2日御殿が残らず焼失したが、天保7年(1836)から工事は、先ず勝手向建物より着手し、同9年(1838)正月頃から大書院の工事にかかり、八箇年の年月を費して天保15年(1844・弘化元年)3月すべての工事を終り、旧位置に再建旧観に復した。
この時の普請奉行は秋永七郎右衛門、岸上清馬等であった。鬼瓦には天保3年の箆書があって、予め鬼瓦が出来上がっていたとも考えられる。

〈旧織田屋形 平面図〉画像提供/奈良県

 現存する建物は、文政13年焼失後、天保15年3月に至って竣工した屋敷のうち、最も主要な部分が今日まで伝えられてきたものである。
明治廃藩置県後、屋敷内の他の建物は逐次撤去されたが、僅かに大書院及び玄関の主要な部分が残され、柳本村民に払下げられた。

明治10年4月柳本小学校が移転し、大書院及び玄関は校舎として使用されたが、その後昭和39年11月に橿原神宮に奉納された。


※「楊本(やなぎもと)」と「柳本(やなぎもと)」について
『柳本郷土史論』(昭和15年発行)には、現在の「柳」の字を使用されるようになったのが、江戸時代初期のことであると記述されています。その為、それ以前の時代の表現については、元々の地名である「楊本」の字を用い、記載を分けております。

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