神武天皇御一代記御絵巻

神武天皇東遷の軌跡

 神武天皇が平和な国を目指し、九州 高千穂から国の中心地である大和国 橿原を目指した「神武東遷」。
ここでは絵巻物により、その壮大な物語を御紹介いたします。
テスト 1 神武天皇じんむてんのう 高千穂宮たかちほのみやに御降臨

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神武天皇じんむてんのう
高千穂宮たかちほのみやに御降臨

神日本磐余彦天皇かむやまといわれひこのみこと彦波瀲武鵜葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことの第四の王子にして
御明達ごめいたつに亘らせ給ひ 御年十五歳の時皇太子ひつぎのみこたま

神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみことは、父「草葺不合尊うがやふきあえずのみこと」と母「玉依姫たまよりひめ」の第四皇子としてお生まれになりました。

幼い頃からたいへん聡明そうめいな皇子であり、御年十五歳のときに皇太子になられました。

テスト 2 高千穂宮に於ける 東征御前會議とうせいごぜんかいぎ

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高千穂宮に於ける
東征御前會議とうせいごぜんかいぎ

天皇御歳四十五歳に及びて
皇兄こうけい始め軍臣等を高千穂宮たかちほのみやに召し
東征とうせいの議を決し給ふ

磐余彦尊いわれひこのみことが四十五歳のとき、兄弟四皇子とその諸臣を集め東征についての会談を行いました。

目的は、天照大神あまてらすおおみかみの思召しである、「この国のすべての人々を安らいで、ゆたかにくらせるようにするにはどうすればよいか」の話し合いでした。

テスト 3 寶船美々津御解繿ほうせんみみつごかいらん 速吸之門はやすいのとに至る

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寶船美々津御解繿ほうせんみみつごかいらん
速吸之門はやすいのとに至る

天皇みずかいくさひきひてひむがしうち給ふ
早吸はやすいに至る

日向の地(宮崎)より磐余彦尊みずから船団をひきいて進軍。
進んで行くと潮の流れの速い速吸之門はやすいのとで、どの船も前に進めなくなりました。
難儀していると国神くにつかみ珍彦うずひこという者と出会い水先案内をしてもらって、無事に宇佐ヘ上陸することができました。

テスト 4 孔舎衛坂くさゑのさかの激戦

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孔舎衛坂くさゑのさかの激戦

遂に難波なにわさきに至る
ただちに孔舎衛坂くさゑのさかに戦へど
皇軍こうぐん会々たまたま皇兄五瀬尊こうけいいつせのみこと賊の流矢ながれやに当らせ給ふ
これおいて軍を退いていわ
日神ひのかみみいきおいそびらに負ひて討つべしと
再び海路南へたち給ふ

ついに磐余彦尊いわれひこのみことの船団は難波崎につき、ただちに上陸し生駒山に向い、この地を支配する長髄彦ながすねひこ軍と戦いました。
しかし途中待ちぶせにあい、鋭い矢が五瀬命いつせのみことのひじを貫きました。
五瀬命は傷に耐えながら言われました。
「われわれは日の神の子孫であるのに、お日さまに向かって矢を射かけて進軍したのが間違いであった。これからは、遠回りしてでもお日さまを背にうけて戦おう」
磐余彦尊は兵を集め再び海路南へと向かいました。

テスト 5 熊野灘の御危難

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熊野灘の御危難

此時このとき熊野灘ににわかに大暴風にあわれられ船体掀飜きんぽんとして漂流ただよう
時に皇兄こうけい御二方おふたかた
いくさくるしみより救ひ給むと御入水遊ばせ給ふ
全軍驚愕きょうがく疲労達すれど天皇勇をして
其地の賊丹敷戸畔にしきとべちゅうし給ふ

船団が熊野灘にさしかかると、海は大嵐になり高波に船は木の葉のようにもまれ海は荒れ狂いました。
「嵐から兵たちをお守りください。どうか一刻も早く嵐を鎮めてください」
磐余彦尊は天神あまつかみ海神わたつかみに一心に祈られました。
稲氷命いなひのみことと兄御毛沼命みけぬのみことはみずから海に入られました。
すると、すうっと波も静かになり嵐は去りました。
その地に無事上陸しましたが、兵たちは疲れきっていました。
しかし磐余彦尊はみずから勇気を奮い立たせ、その地の賊である丹敷戸畔にしきとべを討ち取りました。

テスト 6 高倉下韴霊たかくらじふつのみたまの剣つるぎを 奉り危難を祓ふ

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高倉下韴霊たかくらじふつのみたまつるぎ
奉り危難を祓ふ

熊野に至りす時
賊の毒気に当り全軍えぬ
時に高倉下布都たかくらじふつつるぎ
たてまつりりければすなわち天皇寤起坐さめておきます
ぎて士卒悉復醒起いくさのひとどもふつくにまたさめておき

磐余彦尊の兵が熊野に上陸し、あたりで休んでいると、ふいに大きな熊が現れその熊の毒気に、みんな気を失ってしまいました。
そこへ熊野の高倉下たかくらじが現れ
尊様みことさま、尊様、天神あまつかみのお使いで高倉下たかくらじが太刀をもって馳せ参じました」
みことは目覚められ太刀を受けとりさやからぬき上から振り下ろされました。
すると磐余彦尊の兵たちは目覚め、大熊をさしむけた熊野の賊たちはひとりでに倒れていきました。

テスト 7 八咫烏やたがらす先導を給はる

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八咫烏やたがらす先導を給はる

すでにして皇師中洲みいくさうちつくにおもむかん
山中嶮絶復行路無やまのなかさがしくしてまたゆくべきみちなし
時に神霊遣あまつかみのつかい八咫烏やたがらす道を開き
草賊あたどもうちて遂に菟田下県うたのしもつこおりとおりいた

磐余彦尊の兵たちは、山をいくつも越えたところで道がわからなくなってしまいました。
その時、天照大神が磐余彦の御夢にあらわれて申されました。
「今、天から八咫烏を道案内として差し向けます。その八咫烏の飛んで行く方向に進みなさい」
と教え諭されました。
そして八咫烏の力をもって、土着のたくさんの勢力を征し、ようやく吉野川の川上に行き着くことができました。

テスト 8 道臣命大久米命詔みちおみのみことおおくめのみことみことのり を奉じて兄猾えうかしを誅す

8
道臣命大久米命詔みちおみのみことおおくめのみことみことのり
を奉じて兄猾えうかしを誅す

兄猾えうかし逆謀さかしまなるわざをしてわな等作りぬれば
道臣命みちのおみのみことつかはしちゅうし給ひ
弟猾おとうかしの忠勤をで給ふ

宇陀の穿邑うかちのむらまで進むと、兄猾えうかし弟猾おとうとかしの兄弟がいました。
磐余彦尊は兄弟を召し出そうとしましたが、兄猾は聞き入れない上に悪いたばかりごとをめぐらした御殿を造り
みことにお仕えするので、わたしの御殿におこしくださいますように」と申し出ました。
弟猾はその謀を知り、磐余彦尊のところへ行き兄の悪だくみを申し上げました。道臣命みちおみのみことがこれを聞き、
「兄猾、御殿をつくったおまえが、まず入って見ろ」
と中に追い込むと、自分の罠に押しつぶされてしまい、道臣命に討たれてしまいました。
一方手柄の弟猾に対して、磐余彦尊は礼をもって応えられました。

テスト 9 吉野御巡幸と 土豪の歸順きじゅん

9
吉野御巡幸と
土豪の歸順きじゅん

既にして宇陀を鎖め
天皇みずか軽兵いささけきいくさひきいて吉野に巡幸めぐりいでます
時に土人とちのひと恭順皇軍きょうじゅんこうぐんを迎へ奉る

ようやく宇陀をたいらげることができ、磐余彦尊いわれひこのみことは軽兵をひきつれ吉野を巡幸していると、川で巧みに魚を捕っている者と出会いました。
みことは「あなたはどういう方ですか」と聞くと、
「私は、国神くにつかみ苞苴擔之子にえもつのこです。吉野川の魚を食べて頂こうと採っていました」
苞苴擔之子は尊のお供に加わりました。
しばらく行くと穴の中から尾のある人が現れ
「名は井光いひかと申します」井光も家来になりました。
また岩肌の間から毛皮をきた者があらわれ
「私は国神くにつかみ磐排別之子いわおしわくのこです。吉野の国巣くずの者です」
こうして多くの供が加わり大和の地へ進んでいきました。

テスト 10 丹生にうの川上 朝原の祭

10
丹生にうの川上
朝原の祭

天皇高倉山にのぼりて域中くにのうち瞻望おせり
賊は四方の要衝拒守ようしょうきょしゅ
其夜夢在みゆめありすなわち椎根津彦しいねつひこ弟猾おとうかし
天香久山のはにを取り持て奉れば
天皇朝原あさはら諸神もろもろのかみたちまつり必勝を期し給ふ

磐余彦尊は、高倉山に登り周囲を見渡すと、四方要所はすべて賊に囲まれていました。
その夜、磐余彦尊の夢に天神が現れ
「天の香具山の土で、土器をつくり天津神あまつかみ地津神くにつかみを敬い、供え物をすれば、賊はおのずから従います」とお告げがありました。
尊は椎根津彦しいねつひこ弟猾に「天の香具山の頂きの土をとってくるように」と命じました。
二人は老父と老婆に変装し、無事に香具山の士を持ち帰って土器をつくらせました。
磐余彦尊は、心をこめてお供え申し上げ
「今、賊たちに天照大神の思召おぼしめしがつたわり、従うようになりました時には、必ずや武器の力をかりないで、民たちを慈しみ仁徳によりまつりごとをいたします」と
かたく誓われました。

テスト 11 國見丘の戦い

11
國見丘の戦い

いくさととの御謡みうたよみして
國見丘に八十梟帥やそたけるを撃給ひ
兄磯城えしきちゅうし給ふ

高倉山から見渡したとき、国見山に大勢の八十梟やそたけるが陣取っているのが見えました。
磐余彦尊は軍勢を率いて、久米歌を歌いながら国見山の八十梟を攻撃して、これを破りました。

テスト 12 忍坂おさかの大室おおむろに 八十梟帥やそたけるを舞ひ打つ

12
忍坂おさか大室おおむろ
八十梟帥やそたけるを舞ひ打つ

余党猶繁あまりのともがらなおおおすなわち道臣命みことのりを奉りて
大久米部おうくめらを帥ひ大室おうむろに誘ひ寄せ
とよのあかりけて酒酣さけたけなわの頃即舞打つ也

宇陀からみことの兵は前進しました。
忍坂おさかを通りかかったとき、さらに多くの賊たちが待ちかまえていました。
すると道臣命みちおみのみことが磐余彦尊に申しました。
「ふつうの戦いでは、多くの兵を亡くすことになります。ここは、私に任せてください」
許しを得て道臣命は、謀をめぐらせました。
賊たちにご馳走をしようと持ちかけ、一人ずつにお膳を運ぶ者をつけました。
このお膳運びは、久米部の兵たちが姿を変えて太刀をかくし持っていました。
道臣命は兵たちに「歌声が聞こえたらいっせいに賊を討つのだ」と教え、ご馳走を食べ、酒に酔った賊を、皆いっせいに刀を抜き討ち取りました。
そして、さらに進み大敵の兄磯城えしきを討ち取りました。

テスト 13 登美の瑞光ずいこう(金鵄きんし)

13
登美の瑞光ずいこう金鵄きんし

皇師みいくさ遂に長髄彦ながすねひこうつ
戦へど皇軍しばしば不利りあらず
此時このとき天雷てんらいを飛し
すなわち金色霊鵄こがねのあやしきとび天皇の御はずとまれり
其光雷撃いなびかりの如し賊軍迷眩まどいまぎえて四散す

磐余彦尊の兵たちは、再び長髄彦ながすねひこの軍と戦いましたが、あまりにも強くてかなり苦戦していました。
すると急に黒雲が空を覆い、あたりも暗くなり、叩きつけるようにひょうがふってきました。
そのとき暗い大空の彼方から、さあっと一筋の光がさしたかと思うと金色のとびが磐余彦尊の弓の先に止まり、さんぜんと光り輝きました。
賊軍の兵たちは、稲光りのように目を射られました。
まぶしくて目もあけられず、ついに長髄彦の軍は降参してしまいました。

テスト 14 饒速日尊にぎはやのみこと 長髄彦ながすねひこを誅して歸順きじゅん

14
饒速日尊にぎはやのみこと
ながすねひこを誅して歸順きじゅん

饒速日尊にぎはやひのみこと
長髄彦ながすねひこに恭順を進めたれども
頑迷抗敵がんめいこうてきを固守したれば
可美真手うましまでと共に之をふせぎ
其軍を帥ひて天皇に帰順まつろう

饒速日命にぎはやひのみこと長髄彦ながすねひこ磐余彦尊いわれひこのみことにお仕えするように申しましたが、改める気持ちのないことを知りやむなく磐余彦尊のもとに、息子の可美真手命うましまでのみこととやってきました。
「私はこの大和に住んでいる者です。天神の御子が、天から下られたことを知り、参りました」
と自らもまた天神の御子である印の天羽々矢あめのははや歩靱かちゆきをお見せし「磐余彦尊の家来としてお仕えします」と誓いました。

テスト 15 奠都てんとと宮殿造營

15
奠都てんとと宮殿造營

天皇畝傍にありて全軍を召し
天下統治の大詔おおみことのり渙発かんぱつ
奠都てんと宮殿の造営至る

磐余彦尊は畝傍山のほとりに全軍を招集し橿原奠都の「みことのり」を高らかに宣言されました。
そして人々はこの地に、天皇にお住まいいただくための宮殿をたてました。
それは、今の畝傍山東南の橿原の地であります。

テスト 16 立皇后

16
立皇后

事代主ことしろぬしむすめ媛蹈韛五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと
めしいれて正妃むかひめと為し給ふ

磐余彦尊は事代主命の娘、媛蹈韛五十鈴媛命を正妃としてお迎えになりました。

テスト 17 御即位禮

17
御即位禮

辛酉年春かのとのとりのとしのはる正月庚辰朔むつきのかのえたつのついたちのひ
即ち紀元元年一月一日
天皇橿原宮に即帝位あまつひつぎしろしめし給ふ
諸軍の論功行賞ろんこうこうしょうの事在り

紀元元年一月一日(二月十一日)磐余彦尊は第一代天皇としてついに橿原の宮にて御即位されました。
即位ののち大業を成し遂げるのに尽くした人々を国造縣主くにのみやつこあがたぬしなどにし、国民くにたみには慈しみのお心をそそがれました。

テスト 18 鳥見山中靈畤とみのやまのなかのまつりのにわ

18
鳥見山中靈畤とみのやまのなかのまつりのにわ

四年はる二月壬戌朔甲申きさらぎのみずのえいぬのついたちのきのえさるのひ
皇祖天神みおやのあまつかみ鳥見山中とみのやまのなか霊畤まつりのにわたてて以って皇祖天神みおやのあまつかみまつり
大孝おやにしたがうことのべ給ふ

建国の基礎が定まりましたので、皇祖天照大神のお心にそうよう、烏見山に「まつりのにわ」を立てお祀りになられました。

テスト 19 天皇崩御

19
天皇崩御

紀元七十有六年のはる三月甲午朔甲辰やよいのきのえうまのついたちきのえたつのひ
天皇橿原宮かしはらのみやかむあがしぬ
時に御年みとし百二十七歳ももあまりはたちあまりななつ
畝傍山東北陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎ葬奉かくしまつ

紀元七十六年三月十一日(四月三日)
天皇は橿原の宮にて、崩御なされました。
御年百二十七歳でした。
御陵は畝傍山東北陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎと申し上げます。
第一代天皇は始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみことと申し、おかくれののち神武天皇とおくりな申しあげました。

テスト 20 八紘一宇 (八紘あめのしたを掩おおひて宇いえと為なさむ)

20
八紘一宇
八紘あめのしたおおひていえさむ)

肇国ちょうこくの大精神をもって
万世一系の天皇を戴き
万邦無比ばんぽうむひの歴史は
之我国民の大宝にして
忠誠こたへ奉らむこそ

神武天皇のみこころを大切に守り引き継いできた万世一系の皇室の歴史は、われわれの誇りであり宝でもあります。
日本国と世界の平安のためにおたがいに豊かな心を養いましょう。

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